徳川慶喜に見舞いを贈るよう命令する西本願寺の文書
江戸幕府15代将軍で150年前に大政奉還した直後の徳川慶喜の微妙な立場が読み取れる資料が見つかり、浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所が24日、発表した。大政奉還後に大坂に移った慶喜に対し、同寺が「とりあえず」見舞いの品を贈るよう、大坂の出先機関に命令した内容。幕末に権力の行方が見通せない中、慶喜が周囲からどう見られていたかが分かり、西本願寺のしたたかさも垣間見える資料という。
慶喜は慶応3(1867)年10月14日に大政奉還し、同24日に将軍職の辞任を朝廷に申し出た。12月9日の王政復古の大号令を受けて、同12日に京都から大坂城に移った。鳥羽伏見の戦いは翌年1月3日に勃発した。
今回見つかった資料は、西本願寺が大坂の津村御坊(津村別院)に送る命令書の下書で、慶喜が大坂城に入った2日後の12月14日付。それまでは競うように豪華な贈り物をしていたのに、最高権力者ではなくなった慶喜には、「不取敢(とりあえず)」、しかも「御内々」に見舞いの品を贈るよう指示。慶喜と親しい関係だと思われないような文面を添えるよう配慮した。その上で、会津藩主で京都守護職だった松平容保らへの見舞いも「目立たぬように品物を内々に取りはからえ」と命じていた。「当節柄」という記述が3カ所あり、政治権力の行方が読み切れない当時の雰囲気が読み取れる。
贈答品は、慶喜には鴨のつがい、容保ら計5人には鴨か「カステイラ」を贈るよう指定していた。命令書を実際に津村御坊に発送したのか、慶喜に見舞いを贈ったかどうかは確認できないという。
調査した同研究所の大喜直彦上級研究員は「寺の内部文書であっても現職の将軍だったら『とりあえず』とは書かない。幕府側とも朝廷側とも敵対しないよう、動乱期の危機管理といえる」と話している。