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京の大仏

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京都  京の大仏 


初めて大仏の名前を目にしたのは京都博物館の近くのこの交番。
普段、京都駅から東山方面の市バスに乗ると必ず通り、桜の季節には歩いて何度も往復するエリアです。

ある時、何気なく市バスの車内から交番を見ると大仏前交番 の文字が。




そして前から気になっていたのが

この交番を左折、博物館の出入り口先にあるのが大掛かりな石組み。

大きい物は2メートル近い石を積み上げたものです。

京都の中でもこんな巨大な石垣はありません。二条城の石垣でもここまで大きなものはありません。
方広寺がかつては大規模な寺院だったのか調べてみました。








京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏。

豊臣時代から江戸・徳川時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られ、江戸時代には日本三大大仏の一つに数えられた。 江戸の後期も天保年間になって再建された4代目は昭和の後期まで存続していたが、昭和48年(1973年)、失火により焼失した。

秀吉による造営

天正14年(1586年)、豊臣秀吉は奈良の東大寺に倣(なら)って大仏の建立を計画し、大仏殿と大仏の造営を始めた。 文禄4年(1595年)、大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製金漆塗坐像大仏が安置された。 しかし、慶長元年(1596年)に起きた大地震により、開眼前の大仏は倒壊した。このとき秀吉は大仏に対し「おのれの身さえ守れないのか」と激怒し、大仏の眉間に矢を放ったと伝える。 慶長3年(1598年)、秀吉は法要を待たずに死去し、同年、大仏の無い大仏殿で開眼法要が行われた。

大仏殿は高さ約49メートル、南北約88メートル、東西約54メートルという壮大なものであり、また境内は、現在の方広寺境内のみならず、豊国神社、京都国立博物館、妙法院、智積院そして三十三間堂をも含む広大なものであった。大仏殿は、現在、豊国神社が建つ位置にあった。


大仏がかつてそこにあったことの名残として今日、 鐘銘事件のもとになった梵鐘が吊られた鐘楼(明治再建)と、諸将の名が刻まれた石塁や石塔を見ることができる。

大和大路七条にある大仏前交番など、周辺のいくつかの施設名に「大仏」の名を留めている。また瓦の産地とも知られ「大仏瓦」の名が今に残る。かつては門前で名物「大仏餅」も売られていた。東西の通りである正面通は、この大仏殿の「正面」につながる通りであることに由来している。


詳  細 


この付近の地図 








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