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恭仁京の大極殿院、平城宮と同形態か 発掘柱穴から推定

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京都府教育委員会は5日、奈良時代に造営された恭仁京の中心の恭仁宮跡(木津川市加茂町)の発掘調査で、高官が執務や儀式をした「朝堂院」の北端とみられる柱穴を見つけたと発表した。隣接する「大極殿院」の区画が柱穴の位置から推定され、平城宮(第一次)と同形態の可能性が高くなったとしている。

 大極殿院は、天皇による重要儀礼の場で、権力の中心地。「続日本紀(しょくにほんぎ)」には、聖武天皇の時代に平城宮(第一次、710~740年)の大極殿を移築して恭仁宮の大極殿が建てられたとあり、建材だけでなく、形態も譲り受けたのではないかという。

 調査で、南北に並ぶ計五つの柱穴跡を確認した。朝堂院の東端の場所にあり、朝堂院を区切る柱塀があったとみられる。さらに北を発掘したが柱穴跡はないことから、朝堂院の北端の可能性が高いという。
 
朝堂院の北に隣接して大極殿院がある。大極殿院は北端は確定しているが、朝堂院と接する南端は分からず、大きさや形が不明だった。調査で、南北215メートル、東西145メートルの長方形の可能性が高くなった。東西方向に長方形を二分するようにある段差地形は、大極殿をより高い位置にする「龍尾壇」の痕跡ではないかという。

 第一次平城宮の大極殿院(南北320メートル、東西180メートル)より小さいが、形が似て、宮域に占める面積も大きく、龍尾壇など、ほぼ同じ形態という。府教委は「第二次平城宮(745年~784年)の大極殿院は小さく東西に長く、恭仁宮の後に大きな変化があったとみられる。国家のあり方の変化とも考えられ、興味が深まる」としている。
 現地説明会は9日午後1時半から。問い合わせは前日までに府教委文化財保護課075(414)5903へ。

■大極殿院重視は平城京から変わらずか
 井上和人奈良文化財研究所名誉研究員(古代考古学)の話 大極殿院を重要とみる意識は第一次平城京から変わらなかったとみられる。その一方で、政治の中枢である朝堂院が小規模化しており、この変化が当時の社会の様子を知る手掛かりになるかもしれない。



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