(2018年6月8日 5時0分 まぐまぐニュース)
店頭のアップルマンゴー(1斤=約600g 1元=3.67円)なので600グラム80円!!
ここ数年、日本でもブームとなっている台湾スイーツ。中でも太陽の恵みをその実に凝縮させたかのようなアップルマンゴーは、多くの人を魅了しています。そんなアップルマンゴーが台湾の名物となったひとつの要因に、「日本の統治」があったようです。台湾出身の評論家・黄文雄さんは自身のメルマガ『黄文雄の「日本人に教えたい本当の歴史、中国・韓国の真実」』で、先日亡くなった「台湾のアップルマンゴーの父」と言われた男性のニュースを引きながら、日本が台湾農業に与えた大きな影響等を紹介しています。
【台湾】アップルマンゴーの父が残した日本の作物技術
● “アップルマンゴーの父”鄭罕池さん死去 頼行政院長が追悼/台湾
現在、台湾の夏の風物詩のひとつにマンゴーかき氷があります。マンゴー果肉を贅沢にちりばめたこのマンゴーかき氷は台湾で人気に火がつき、日本でも今や若者を中心に人気を得ており、主に東京ですが台湾式マンゴーかき氷を出す店も増えています。このかき氷は、マンゴーの生産が盛んな台湾で、台湾産マンゴーの活用法のひとつとして誕生したものでした。
そして、台湾で盛んに栽培されているマンゴーは、皮がリンゴのように赤くなることから「アップルマンゴー」と呼ばれる品種で、台湾の原生種ではありませんでした。台湾にアップルマンゴーを持ち込み、栽培に尽力した人物が鄭罕池という人物であり、その方が亡くなったというニュースが台湾で流れました。頼行政院長も彼の死を悼み、彼の功績を惜しみなく評価しています。
台湾が今のようなマンゴー天国になった背景を知るには、日本統治時代まで遡る必要があります。日本統治時代、台湾の農業は惨憺たるものでした。日本統治時代に、多くの日本人研究者や日本人技師らが台湾の産業を向上させるために貢献したのです。
アップルマンゴーの父であった鄭罕池さんは、もともとはサトウキビの栽培を行っていた人でした。台湾のサトウキビ産業は日本統治時代以前からありましたが、新渡戸稲造が台湾に来たことでサトウキビは台湾の根幹産業となったのです。以下、拙著『台湾は日本人がつくった』(徳間書店刊)から抜粋します。
台湾へ渡った新渡戸は、半年かけて全島を巡り、殖産興業の要は製糖業にあると確信した。調査の後、パリで開かれた万国博覧会へ出かけたのを機に、欧米諸国及び、その他の植民地の製糖設備を調査して歩いた。
帰途はエジプトとジャワへ寄り、製糖業経営の実地視察、殖産局長心得を学んで帰ってきた。製糖政策の具体策を盛り込んだサトウキビの品種改良、栽培法、製造法などの意見書「糖業改良意見書」を児玉総督と後藤新平に提出した。
台湾糖業の発展は新渡戸の改善策により、品種改良開始から11年目には砂糖生産量が6倍になったと言うから、彼の貢献度が相当なものだった事が判る。その後の技術向上により、日本領台前には年間5万トンだったが、昭和11年から翌年の最盛期には、年産100万トンを越えた。
こうして台湾のサトウキビ産業は20世紀初頭に最盛期を迎えますが、終戦を経て、国際社会がだんだんと成熟していくにつれ、台湾の砂糖は安い輸入品に押されるようになり、徐々に台湾での生産量が減少していきました。そして、今ではかつての工場は必要とされなくなり、台湾糖業公司も1990年代から経営の多角化を進め、現在では、砂糖部門に加え、観光業部門、石油販売部門、畜産部門などの8部門に分かれています。以下、台湾サトウキビの現状をレポートした資料を引用します。
2014年期の生産量は54万トンであり、生産量は日本の約半分である。また、収穫面積は約8,000ヘクタールであり、このうち約8割は台湾糖業公司の自社圃場である。製糖工場は中部の虎尾工場(雲林県)と南部の善化工場(台南市)の2カ所にある。1日当たり圧搾量は各工場とも約2,500トンであり、操業は例年、12月から翌年3月までの4カ月にわたり行われている。
● 台湾のサトウキビ品種育成の現状ならびにサトウキビ野生種の自生状況
これほどまでに生産量が減少した台湾サトウキビですから、農業従事者も何か別のものを栽培しなければ立ち行きません。鄭罕池さんもその一人でした。以下、報道を引用します。
鄭さんは1929年生まれ。50数年前に米国からアップルマンゴーの苗木100本を持ち込み、害虫被害の克服に励むほか、農家に栽培方法を教えるなどし、台湾のマンゴー栽培普及に貢献した。また、玉井をマンゴーの故郷として世に知らしめることにも寄与した。
● “アップルマンゴーの父”鄭罕池さん死去 頼行政院長が追悼/台湾
鄭さんは1929年生まれ。現在の台南市玉井区でサトウキビを栽培していたが、1962年にアップルマンゴーに目をつけ、米国から苗木100本を持ち込んだ。栽培したが冬の寒さに耐えられず、3年後にはわずか4株に減っていた。しかし同年には収穫に成功した。アップルマンゴーは虫害に弱いなどの問題も出たが、鄭さんは実に白い紙袋をかぶせるなど防ぐ方法を編み出した。最終的にアップルマンゴーの「標準栽培法」が確定すると、鄭さんは周囲の農家の求めに応じて、栽培法を伝授した。現在の台南市玉井区はサトウキビ栽培農家がなくなった一方で、輸出用を含めてアップルマンゴーを出荷する重要産地になったという。
●「アップルマンゴーの父」鄭罕池さん死去…地元農業に「新たな光明」もたらした偉大なる台湾人
自ら編み出した栽培方法を惜しげもなく求められるがままに伝授し、台湾のマンゴー市場を開拓した偉大な人物として、その名を台湾農業の歴史に名を残したのです。日本が育成した台湾農業の素地は、鄭罕池さんの手によってアップルマンゴーへと引き継がれ、台湾の農業を支え続けているのです。
かつて、日本時代に台湾に作られた製糖工場は今も残っており、記念館やレジャースポットとして活用されているので、観光の際には、ぜひ立ち寄って台湾の農業の変遷に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
台湾は「果物天国」と呼べるほど果物が豊富で、夏になると八百屋から露店まで果物で溢れています。日本人観光客は、それらカラフルな果物が並んでいるのを眺めるだけでも楽しいようです。
中でも現在、台湾で売られているアップルマンゴーは、私が幼い頃は見かけたことのなかった品種です。私は幼年時代を戦乱の中で過ごしましたが、その際、爆撃を避けるために高雄市岡山区というところに疎開しました。その疎開先が果樹園農家で、台湾原産の小さなマンゴーもたくさん成っていたことを今でもよく覚えています。
そして、その当時様々な果物を食べ、マンゴーにも親しんだおかげで、今でも若いマンゴーの食べ方も覚えています。マンゴーは成熟してからが美味しいのですが、若いマンゴーは醤油、砂糖、生姜で作ったタレにつけて食べました。
台湾の考古学は、出土品から見る限り、約2万5,000万年から3万年前に人類が現れたと言われています。動植物については、17世紀初頭にオランダの東インド会社経由で持ち込まれたものも多くあります。農産品については、ほとんどが日清戦争後に日本が持ち込んだものです。動植物の研究、有用植物の栽培、昆虫の研究などのほか、農作物における害虫退治に至るまで、日本は台湾を「治山治水」して改造しました。
そして、地球最後の秘境と言われた台湾を「美麗島(イラフォルモサ)」と呼ばれるにふさわしい島に改造したのです。それまでは物々交換だった台湾社会を、わずか半世紀で貨幣経済や流通を発達させ、1940年代に入ってからは、「産業社会」の仲間入りを果たすまでになったのです。
さらに、これは決して大昔のことではなく、わずか前世紀のことなのです。戦後は、日米とアジア振興諸国の間にトライアングル貿易が生まれ、アジアNIEsが生まれました。
台湾が世界に知られる「果物天国」となり、農業や農耕技術、精神史に至るまで先進国の仲間入を果たすことができたのは、「日本精神」を受け継いできたからです。「日本精神」を受け継いだ台湾人たちは、日本人同様に伝教師のように世界各国に技術を伝えているのです。
(画像・image by: Flickr)