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西本願寺の文書から見つかった赤穂事件の記述

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浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の研究機関、本願寺史料研究所は2日、江戸時代に西本願寺が江戸の出先機関、築地御坊(現・築地本願寺)とやりとりした文書の中に、「忠臣蔵」のモデルとなった「赤穂事件」の発生直後の記述があったと発表した。遅くとも事件の7日後には西本願寺が一報を受け、その後続報がもたらされていた。事件の推移を追ういわばリアルタイムの記録で、資料として貴重だとしている。

 赤穂事件は、1701(元禄14)年3月14日、浅野内匠(たくみの)頭(かみ)長矩が吉良上野(こうずけの)介(すけ)義央を江戸城内松の廊下で切り付けた。長矩は即日切腹、浅野家は断絶。02年12月14日の「赤穂浪士討ち入り」で吉良義央は死去した。

 築地御坊が西本願寺へ送った報告書は現存しないが、報告書に対する西本願寺の返信の控え「江戸江(へ)遣(つかわす)書状留帳」に、報告の内容が一部引用されていた。事件の7日後、3月21日付の江戸への返信に事件を「不慮之儀」と記述。4月5日付は「内匠殿 乱心之様…」と記し、同寺が事件を浅野の「乱心」と把握していたことがわかる。

 吉良家と関係の深かった同寺は築地御坊に、事件の情報収集を命じた。4月10日付の文書で、義央本人との面会に成功し、事件を取り調べた役人にも接触を試みたことが分かる。吉良が幕府に辞職を願い出たことも報告されていた。討ち入り後の1702年12月24日付は、「驚存候 絶言語」と西本願寺の驚きの大きさを記し、それ以降、吉良家との関係を示す記述はなくなった。

 今回確認された刃傷事件直後から討ち入りまでの約2年間の文書は、1月31日に東京都中央区の築地本願寺、2月21日午後1時半から、下京区の西本願寺聞法会館で開く公開講座で展示される。
要予約。西本願寺TEL075(371)5181。




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