池の南東に設けられていた石組みの滝
京都市中京区の旧新風館で26年前に見つかった石組みの滝がある室町時代中期の池跡は、枯山水(かれさんすい)の表現を取り入れ、観賞用の建物を設けた池だったことが、昨年の市埋蔵文化財研究所の再調査で分かった。専門家は「水をたたえる池と、枯山水の滝を設けた当時最先端の庭と推測できる」としている。
1991年の発掘調査で見つかった池跡は方形で、東西約12メートル、南北9メートル以上(深さ1・4メートル)。南東角には、高さ80センチ、幅75センチの石や小さい石を組んだ滝(高さ1・2メートル)が築かれ、北東角には平らな陸地とその北東に水を引き入れる「遣(や)り水」風の石組みが設けられていた。
今回の調査で、15世紀前半の大規模な改修跡を確認した。それ以前の古い池の造成は14世紀末~15世紀初頭とみられる。西側の岸や池底には、池に約2メートル張り出した建物の柱穴がL字形に並んでいた。改修で建物は取り壊され、池底をかさ上げし、滝の前などに50センチほどの景石を直線的に配置していた。
池の中央に地下水が湧き出す穴が見つかり、水をたたえていたとみられるが、周辺の「滝」や「遣り水」は土の状況から、水が流れていなかったと考えられるという。京都造形芸術大の仲隆裕教授(歴史遺産学)は「石組みを滝に見立てるなどの枯山水庭園は、南北朝時代に京都で広まった。文化の流行に敏感な人が造ったのだろう。平安時代の大覚寺の滝殿のような観賞用建物もあり、庭園の変遷を知る上で貴重」と評価している。
調査地は平安時代後期には、平治の乱(1159年)で源義朝が焼き打ちした後白河上皇の院御所「三条東殿」などがあった。室町時代前期は武家、後期は有力な商人が邸宅を設けていたとされる。前回調査で陶製枕や輸入陶器など希少品が出土しており、同研究所は「池があった時期は商業地だったので、非常に裕福な商人の邸宅の池だった」とみている。
池跡の再調査は、旧新風館の建て替え事業に伴い実施。滝の石組みは、新しい商業施設に復元展示される予定。