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生き残り懸け将軍のカルテ入手 幕末の西本願寺

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黒船が来航した報告書や徳川家茂の花押が書かれた文書



浄土真宗本願寺派(本山・西本願寺、京都市下京区)の本願寺史料研究所が24日に発表した江戸時代末期の資料には、同寺が、江戸幕府のトップシークレットを収集していたことを示す内容もあった。中には「将軍のカルテ」まである。情報を迅速に入手することにより激動の時代の中で生き残りを懸けようとする同寺の姿が浮かぶ。
 西本願寺には現在20万点の文書が残る。研究所が幕末以降の歴史をまとめる「本願寺史」の編さん作業中に文書を確認し、今回は7点を発表した。

 その中に、幕末の第2次長州征伐で大坂城に入った14代将軍家茂の病状を探る手紙や「容体書」(カルテ)があった。

 慶応2(1866)年7月4日、朝廷は漢方医の高階経由らを大坂城に派遣し診察させた。西本願寺には経由の息子経徳からの手紙が残り、経由に情報を送るよう依頼したことをうかがわせる。それに対して7日に京都へ帰った経由の返信(8日付)は「せがれ(経徳)へのお手紙の内容、委細承知」「極御内々」と同寺の求めに応じ、家茂の容体書を同封してあった。

 容体書は7月5日付。家茂は6月下旬から体のむくみや発熱、嘔吐(おうと)、食欲不振、尿が出ないなどの症状があり、このままだと脚気(かっけ)になる恐れがあり、心臓機能の低下となれば「計り知れない」と記されていた。

 この内容は、1934年に発行された「新聞薈叢」(岩波書店)に掲載された翻刻と同じだった。孝明天皇の側近朝彦親王の日記には、経徳が家茂の容体書を親王に持参したと書かれている。容体書は複数出回っていたとみられるが、研究所の大喜直彦上級研究員は「当時の資料が残っているのは珍しいのではないか」とみる。

 西本願寺が情報収集に奔走していたことを示す資料について、海原亮住友史料館主席研究員(日本近世史)は「西本願寺が積極的に働きかけて家茂の様子を尋ねており、想像力がかき立てられる。容体書が実は広く流布していたことと、その背景の一端を示しており、貴重な史料であることは疑いない」とする。

 今回の資料は、来年2月20日に下京区の西本願寺聞法会館で行われる研究所の公開講座で展示される。
問い合わせは同派075(371)5181。
 

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