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関ケ原前後の石垣跡が出土 京都・伏見城、激戦と復興示す

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高熱で赤く変色した石が残る豊臣期のものとみられる石垣



豊臣秀吉が造営した伏見城に隣接する武家屋敷跡(京都市伏見区桃山町)の発掘調査で、関ケ原の戦いの前哨戦で焼けた石垣跡と、後に徳川家康が再建したとみられる石垣跡が見つかり、民間調査会社が14日発表した。豊臣期と徳川期の遺構が同時に見つかることは珍しく、研究者は「激戦の様子や、家康による復興過程を示す貴重な発見」としている。

 伏見城は、1596年の慶長伏見地震で宇治川近くにあった秀吉の指月伏見城が倒壊した後、その北東の木幡山に建てられた。1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、籠城する徳川方を石田三成方の西軍が攻撃し落城。関ケ原の戦いに勝利した家康が再建し、西日本支配の拠点とした。城下町も並行して再建された。

 調査地は城の内堀の外側で、徳川期は家康の四男松平忠吉の邸宅があったとされる。西側斜面で石垣跡を確認。石は抜かれていたが、石垣と土の間に詰める裏込め石が見つかった。さらに東に2メートル掘り進むと、別の石垣跡があり、石は赤く変色し、一部は表面が割れていた。周囲にも焼け土があり、落城時の激しい炎にさらされた痕跡とみられる。

 調査した四門京都支店(下京区)の辻広志主任調査員は「最初に見つかった石垣跡は、豊臣期のものを覆い隠すように造られ、徳川期の再建と考えられる。豊臣期と徳川期がはっきり分かる事例は少なく、石の種類や石垣の構造など比較研究につながる」と期待する。

 山田邦和同志社女子大教授(都市史学)は「2メートルも石垣をずらしており、徳川期の再建が、豊臣期の単なる再利用でなかったことを示している。不明な点が多い城下町の変遷を知る上で貴重な遺構だ」と注目する。
 発掘調査は終了しており、現地説明会はない。



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