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「悲運の皇子」惟喬親王しのぶ法要 135年ぶりに営まれることに/京都 

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 文徳天皇の第1皇子で「悲運の皇子」として知られる惟(これ)喬(たか)親王をしのぶ法要が10日、陵墓がある京都市左京区大原上野町で営まれる。

 近年、法要について書かれた史料が相次いで見つかり、今から135年前の明治14(1881)年までは行われていたことが判明した。地元の人も同地に陵墓があるということしか知らなかったといい、法要を主催する大原観光保勝会の辻美正会長(67)は「惟喬親王のことを少しでも知る機会になれば」と話している。

 惟喬親王は承和11(844)年、文徳天皇の第1皇子として誕生した。しかし、文徳天皇と藤原良房の娘の間に生まれた異母弟の第4皇子、惟仁親王(後の清和天皇)が、強大な勢力を誇っていた藤原家の後ろ盾を得て即位。惟喬親王は20代で出家を余儀なくされ、比叡山の麓に広がる小野宮に隠棲。寛平9(897)年に、54歳で死去したとされる。

 辻会長によると、惟喬親王は隠棲の際、京都・大原や滋賀県東近江市などを転々としたとされ、死後には遺骨が京都市左京区大原上野町の山中に移され、五輪塔が建てられたという。

 ろくろで木工品をつくる「木地師」の里といわれる東近江市には、惟喬親王が木地師の祖神で、ろくろの技術を広めたという伝説が残っている。一方、京都の大原地区には、惟喬親王の家来が共に移り住んで「久保」姓を名乗って、同地区の政(まつりごと)や墓守の役割を担っていたとされる。

 辻会長は「大原には木地師の伝説は伝わっておらず陵墓があるということだけ伝わっていた。滋賀と京都で異なる伝説が残っている」と興味深そうに話す。

 近年見つかった史料は「大原古文書研究会」の上田寿一代表(68)らが10年以上に及ぶ調査の中で発見した。

 上田代表によると、このうち、地元自治会の大原自治連合会で保存されていた文書では、弘化3(1846)年の950回忌で豆腐や白米、美濃紙などの引き出物が用意されたことが記されていた。

 また、勝林院(京都市左京区)の年中行事などを文化14(1817)年にまとめた古文書には、毎年2月25日(旧暦)に法要が営まれていたと記述があり、ほかの古文書でも、明治14年に久保家などが中心となって法要を営んだ記録があったという。

 上田さんは「法要が営まれたということは、2月25日がご逝去した日かもしれない」と推察する。

 今月10日の“135年ぶり”の法要は、4会場で関連行事が行われ、このうち京都市左京区の大原上野町の山中にある陵墓では午前9時から墓参りが行われ、勝林院では同11時から法要が営まれる。

 辻会長は「大原には平安時代から続く隠れた歴史遺産がたくさんある。惟喬親王を多くの方が知るきっかけとなり、大原の魅力も発信できれば」と話した。



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