「私たちは日本人以上に日本の伝統を守ってきた」。そう熱く語るのは日本統治時代の1920(大正9)年創業の最中(もなか)専門店「台北堂」の2代目・李克忠さんの妻、陳彩さんだ。台北市内に店を構える同店は初代が日本人から学んだ技術を3代にわたって引き継ぎ、日本の国花とされる「菊」などをかたどった最中を作り続けている。
▽一般市民は口にできなかった同店の最中
陳さんによれば、初代・李徳眉さんが立ち上げた同店は日本統治時代、台湾総督府からの依頼を受けて最中を作っており、一般市民には販売していなかった。そのため、当時同店の商品を口にできたのは政府高官や皇族など一部の日本人だけだったという。
だが、日本が第二次世界大戦で敗れ、国民党による統治が始まると状況は一変。同店の最中は一般販売されるようになったが、日本語由来の「最中」の名は使えなくなり、1980年代後半に台湾が民主化されるまで中国語の「相思餅」の名前で売ることを余儀なくされた。しかし、そうした時代にあっても伝統は途絶えず、その技術は2代目にそのまま受け継がれた。
▽伝統の「手作り」続ける3代目
現在は、1991年に引退した2代目の後を継いだ3代目・李振誠さんが店を切り盛りしている。最中の皮を作る仕事はかなりの重労働で、真夏には40度以上の暑さの中で何時間も作業を続ける必要があるが、日本統治時代から伝えられてきた「おいしさ」のために、今も手作りを続けている。
一方、若い頃に学んだパンや洋菓子の知識を活かし、ナッツなどを使った新商品を開発。最中の皮も若者が好む抹茶やイチゴ、チョコレートなどの5種類に増やすなど、市場開拓にも取り組んだ。
▽目標は「伝統を守り続けること」
同店の最中は、以前より日本料理店などから評価を受けていたが、一般的な知名度は高くなかった。だが、最近は雑誌やテレビの紹介などを目にした若い層から人気を集めており、台湾人客のほとんどが若者だという。陳さんは、日本で最中を知った人たちが「台湾にも最中があったのか」と驚き、店を訪れるケースが多いと話す。
3代目も若者からの支持を受けて「彼らは伝統や歴史にこそ魅力を感じている。だから全自動化は検討していない」と語っており、これからも手作りを続けていく考えだ。
今後の目標は何かという問いに「これからもこの伝統を守り続けられたら」と答えた3代目。「後を継ぐかは本人次第」としながらも、長期休暇などに息子に最中作りを教えており、“4代目”の育成にも力を注いでいる。